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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

歌川国輝 (3代目)

「凱旋新橋御着之図」 大判錦絵3枚続 ※明治28年 「東京名所 浅草観世音之図」 大判錦絵3枚続 早稲田大学中央図書館所蔵 「静御前」 大判錦絵2枚続 エルミタージュ美術館所蔵 「女礼式之図」 大判錦絵3枚続 ^ 『浮世絵の見方事典』は三代目歌川豊国の門人であったとする。また同著148頁に記載の略系譜では二代目国輝の門人としている。

คำที่เกี่ยวข้อง

歌川国輝 (2代目)

「東京名所図会」 大判揃物 ※明治元年 「東京十二景」 大判 ※四代目国政との合作、明治元年 「東京築地ホテル館」 ※明治2年(1869年) 「東京築地鉄砲洲景」 ※明治2年 「東京高輪鉄道蒸気車走行之全図」 ※明治3年2月 「現如上人北海道巡教之図」 大判18枚揃 ※三代目広重らとの合作、明治4年 「上州富岡製糸場之図」 大判3枚続 ※明治5年

歌川国貞 (3代目)

「東京名所 室町三井富士遠景」 大判3枚続 GAS MUSEUM がす資料館、早稲田大学図書館、逓信総合博物館など所蔵 明治7年(1874年) 「新富座本普請落成夜劇場看客群集図」 大判3枚続 GAS MUSEUM がす資料館所蔵 明治11年(1878年) 「中宵宮五人侠客」 大判6枚揃 明治12年(1879年)

歌川国輝

「仮名手本忠臣蔵・六段目」 フェレンツ・ホップ東洋美術館所蔵 「仮名手本忠臣蔵・七段目」 フェレンツ・ホップ東洋美術館所蔵 「大星十八ヶ条申開」 フェレンツ・ホップ東洋美術館所蔵 「勧進大相撲土俵入之図」 大判3枚続 「富士之裾野巻狩之図」 大判3枚続 ※嘉永2年 「室町の雪」 大判3枚続 ※嘉永5年

歌川広重 (3代目)

三代目 歌川 広重(さんだいめ うたがわ ひろしげ、天保13年〈1842年〉 - 明治27年〈1894年〉3月28日)とは、江戸時代から明治時代にかけての浮世絵師。 初代歌川広重の門人。姓は後藤、後に安藤を称し、幼名は寅吉といい、後に寅次郎。俗称安藤徳兵衛。一立斎と号す。父は深川で船大工をしていた。

歌川豊国 (2代目)

二代目 歌川 豊国(うたがわ とよくに、生没年不詳 )とは、江戸時代の浮世絵師。 初代歌川豊国の門人。名は源蔵、一陽斎(文政11 - 12年)、一暎斎(文政11年頃以降)、後素亭(文政11年頃 - 天保5年)、満穂庵、また一龍斎と号す。文政の初め頃、初代豊国

歌川国盛 (2代目)

年は不明だが、明治14年(1881年)3月出版の『浮世画手本』には「故人」とあるので、これよりさほど遡らぬ時期に没していたのがうかがえる。 『江戸名所古跡物語』1冊 合巻 ※自画作、表紙に「胡蝶園作」、「春升画」。序文に「天保十六巳立春」とあるが、天保15年12月2日には弘化に改元しているので、それ

歌川国明 (2代目)

「松栄千代田神徳」 大判錦絵3枚続 ※明治11年6月、東京新富座『松栄千代田神徳』より 「芝公園地丸山御遊覧之図」 大判3錦絵枚続 ※明治13年(1880年) 「新吉原娼妓黴毒病院検査之図」 大判錦絵3枚続 ※明治16年(1883年) 「梅ケ谷藤太郎」 大判錦絵3枚続 ※明治17年 「千住大橋吾妻橋洪水落橋之図」 大判錦絵3枚続 都立図書館所蔵 ※明治18年

歌川国政 (5代目)

大修館書店、1982年 ※37頁「国政五代」及び42頁「小国政」の項 吉田漱 『浮世絵の見方事典』 北辰堂、1987年 悳俊彦「残照の中の浮世絵師達 江戸っ子を自認した町絵師・竹内柳蛙」 国際浮世絵学会『浮世絵芸術』144号所収、2001年[1] [脚注の使い方] ^ 『原色浮世絵大百科事典』第2巻、42頁(小国政の項)。

歌川豊国 (4代目)

御上洛東海道」にも参加したりしている。また明治元年に描いた「東京源氏雪の曙庭の戯」は光氏の御殿の庭で裸の侍女たちがふざけあっている図といういささかエロチックな3枚続で、この時点では幕末の雰囲気を脱していないが、その後には「東京名勝」、「東京名所」、「女粧

歌川国虎 (2代目)

くにとら、生年不明 - 明治29年〈1896年〉)とは、明治時代の浮世絵師。 三代目歌川国貞の門人。本姓は渡辺、名は丑太郎。最初に政員、後に国虎、梅筵、梅園、歌虎と号す。作画期は明治20年代頃で、日清戦争に関する戦争絵を残している。 「奉天府城大激戦之図」 大判3枚続

桂歌之助 (3代目)

助の「歌」に、雀々の「々」、大師匠の3代目桂米朝が考案した「志」(「子」だと弱々しいため)の各字をつなげたものだった。 1997年5月の「歌之助百噺」にて初舞台。26歳と高い年代での入門だったため、米朝は「高座でやるかどうかは別として、一つでも噺を仰山(ぎょうさん)覚えときなさい」とアドバイスしたと

中村歌六 (3代目)

翌年9月に中村時蔵と改名する。明治8年(1875年)、兄とともに上京。以後東京の舞台で九代目市川團十郎と共演した。のち中芝居に活動の場所を移し、明治41年(1908年)4月、東京明治座で『奥州安達原・袖萩祭文』の貞当と袖萩で三代目中村歌六を襲名する。晩年は市村座で子の初代中村吉右衛門の脇を務めたりする一方で歌舞伎座で老け役として活躍し後進の指導にあたった。

歌川芳輝

立美術館所蔵 ※「六十四翁 一椿斎芳輝」の落款、「芳輝画印」の白文方印あり(二幅いずれも同じ)。明治4年 「衣通姫図」 絹本着色 大英博物館所蔵 「鍾馗図」 幟絵 「神宮皇后と武内宿禰」 絵馬 碓氷峠熊野神社所蔵 白石一 「一椿斎芳輝」 『浮世絵界』第4巻第2号 浮世絵同好会、1939年 ※2 - 7頁

實川延若 (3代目)

と違い、線は細く声もかすれ気味であり私生活も謹厳実直であまり重い役を与えられることがなかったがそれでも文句ひとつ言わずにきちんと演じていた。温厚で宙乗りの際裏方がミスをしても叱ることなく「あかんやないか」と優しく注意するだけで平然していた。 古典では『楼門五三桐』の五右衛門、『雁のたより』の五郎七

瀬川如皐 (3代目)

蚊、雅号に二五社・藪雀庵がある。 江戸の生まれ。はじめ呉服屋を営んでいたが、天保10年(1839年)絞吉平の名で河原崎座に入り、歌舞伎狂言の創作活動を始める。のち絞吉平、姥尉輔の名で五代目鶴屋南北に師事する。その後四代目中村歌右衛門の

市川壽海 (3代目)

た。舞台ではずっと座りっぱなしだったが、千穐楽の日、大詰の「千住大橋の場」幕切れで、ふと何かに取り憑かれたかのようにすっくと立ち上った。観客は驚きどよめき、大向うからの「立ったぁー!」の掛け声と場内万雷の拍手に包まれながら、定式幕が引かれて壽海を舞台奥に消し去るという、誰もがその遠くない最期を一瞬予感するような伝説的な最後となった。

市川翠扇 (3代目)

三代目 市川 翠扇(いちかわ すいせん、1913年(大正2年)12月16日 - 1978年(昭和53年)9月27日)は、昭和時代に活躍した新派の女優、舞踊家。歌舞伎舞踊市川流三世家元。本名は堀越 喜久榮(ほりこし きくえ)。 東京都東京市京橋区築地の生まれ。父は歌舞伎役者の五代目市川新之助、母は九

市川莚升 (3代目)

近年、書籍、インターネットなどで、二代目市川左團次を初代市川左團次の一人息子とし、三代目市川莚升を初代左團次の養子とする記録が多々散見されるが、高橋家の戸籍原簿に拠れば、これは全くの誤謬である。 「市川ぼたん」の名跡は、明治の歌舞伎改良運動を九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎らと共に進めた初代市川左團次が

市川市蔵 (3代目)

と名乗っていたが、母方の祖父三代目市川蝦十郎に因み、名字を市川と改め、三代目市蔵の名跡を継承する形で、1837年(天保8年)に兄とともに大阪座摩の宮芝居で初舞台を踏む。その後は父と共に上方、江戸の舞台で活躍する。大柄な体格で容姿に恵まれ、八代目市川團十郎に似ているので人気があった。実事、立役、敵役